心の危機と現代 大野裕さんが選ぶ本

■複雑さ受け止めて対処を

 こころの健康を守る環境作りを目指す基本法制定に向けて超党派の国会議員連盟の議論が続いている。その重要性は、72万筆の署名が集まり、全人口の7割以上をカバーする300強の自治体議会から採択を求める意見書が出されたことからもわかる。この基本法案は、精神疾患を持つ人も持たない人も等しく尊厳をもって生きていくための環境作りを謳(うた)っており、精神疾患に限定されない全国民のこころの健康に目を向けた施策へと広がる可能性を秘めている。
 地域でこころの健康を守る活動の意義は、平山史子らが「女川町地域保健再構築に向けた取り組み」(季刊「精神科臨床サービス」12巻02号)で示した、震災の被災地域でのこころと体、暮らしを一体化した相談支援体制に示されている。こうした試みは、原因がまだ解明されていない精神疾患医療機関と地域が協同的にケアするとともに、住民全体のこころの健康を守る地域モデルになりうる。
 しばらく前に、アメリカの学会で遺伝子チップを見せながら、遺伝子から治療法を選択できる時代がまもなく来ると講演する専門家がいた。しかし、残念ながらそうした時代は簡単には来そうにない。近年の脳科学の発展はめざましいが、効果的な治療につながる精神疾患の病因の解明までには至っていないのだ。加藤忠史が『動物に「うつ」はあるのか』(PHP新書・756円)で更なる協同作業を提言するように、基礎的な脳研究と臨床的な脳研究の間には大きなギャップが残っている。

■「新型うつ病」?
 それほどに人のこころは複雑だ。その事実を受け止め、それぞれの人にあった治療法を考えていかなくてはならない。半世紀前に科学への過信を警告し絆の大切さを描いたダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』は今なお重く心に響く。
 質の高い精神医療のためには、診断だけでなく、それぞれの人の生まれや育ち、生活の背景を考えなくてはならない。単に診断名をつけて薬を処方するだけでは人の心は癒やされないのだ。とくに、特定の精神疾患が増えていると話題になるときは注意が必要だ。最近話題の新型うつ病はその例だが、人の心のあり方が何年かでそんなに大きく変わるとは考えられない。画一的な診断は、悩みを抱えた個人の特性を消して反治療的になるリスクをはらむ。

■個別性に注目を
 私が専門にする認知療法は、個別性に目を向けた治療法だ。現実に目を向けながらしなやかに考え問題に対処していく。西洋思想から生まれた治療法のような印象を受けるが、じつは東洋思想に通じる発想が多く含まれている。吉田豊編『武道秘伝書』(徳間書店・1890円)に書かれているような、とらわれない自由なこころのあり方を大切にするという点で、認知療法の発想はまさに東洋思想的だ。
 精神疾患の治療では、当事者の力だけでなく、細川貂々が『ツレがうつになりまして。』で描いた家族や地域の支援が重要である。地域での支援体制の重要性については福田正人が、統合失調症の脳研究を紹介した『もう少し知りたい統合失調症の薬と脳』(第2版、日本評論社・1890円)でも言及している。高野和明は、そうした人間的触れ合いが自殺対策でも重要な役割を果たすことを、小説『幽霊人命救助隊』で見事に表現した。国の大型研究「自殺対策のための戦略研究」に携わった私も全く同感である。

 ◇おおの・ゆたか 精神科医 50年生まれ。『「うつ」を治す』『はじめての認知療法』など。