第1次大戦から 山室信一さんが選ぶ本
■帝国の総力戦が与えた衝撃

 第2次世界大戦の終結から67年、そして2年後に第1次大戦の開戦百周年を迎えようとしている夏。「未完の戦争」として第2次大戦につながり、ロシア革命を生んだ第1次大戦への関心が国内外で高まっている。総力戦となったがゆえに近代世界のあり方を決定的に変え、「破局の20世紀」の発端となった第1次大戦。果たしてそれは、二つの大戦と冷戦を経た三つの戦後を迎え、しかし今なお「戦時」が絶えない現代世界に生きる私たちにいかなる問いを突きつけているのだろうか。
 この日本人になじみの薄い戦争については、J・J・ベッケールとG・クルマイヒの『第一次世界大戦』上・下(岩波書店・各3360円)が貴重な成果として訳出された。しかし、仏独両国における歴史認識の共有という使命感を強く反映した本書では、第1次大戦はあくまで「ヨーロッパ大戦」とみなされている。
 他方、開戦直後の1914年8月、日本人はこの戦争をいち早く「世界大戦」と名づけていた。そこにはこの戦争が日米戦争につながるという意識が働いていたが、アジアやアフリカの人々も巻きこんだ戦争を「ヨーロッパ大戦」と限定してしまうことには、やはり無理があろう。

■認識上の「空白」

 それではアジアの人々は、いかに第1次大戦に係(かか)わったのだろうか。その認識上の空白地帯となっていた東南アジアにおける二つの大戦と三つの戦後の意味を、多様な領域概念と統合形態をもったマンダラ国家から国民国家への展開過程に重ねて描いたのが、早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ』である。ここでは細かな史実の断片を丹念に突きあわせることで、領域概念の流動性ゆえにナショナルな地域性が「世界性」につながっていく意味が明確に示されている。そして、この東南アジアにおける日本人の戦争・占領体験を、現地の人々の眼差(まなざ)しと交錯させながら、語りと回想によって再現した中野聡『東南アジア占領と日本人』(岩波書店・2940円)は、帝国日本が拡張を契機に自壊していく逆説を浮かびあがらせている。
 もちろん、二つの大戦が「世界性」をもったのは、それが帝国間の覇権競争であったからに他ならない。その「帝国の総力戦」がいかに戦われ、戦争が本国と自治領・植民地などの重層する帝国空間にいかに衝撃を与えていったのかを分析したのが『20世紀の戦争』に収められた木畑洋一の第1次大戦に関する論説である。この本には野戦郵便から戦争における主体性とは何かという問題に迫る小野寺拓也、自衛隊の兵器体系と現代戦の特徴を分析した山田朗の論説など、注目すべき力編が並んでいる。

■一国史を越えて

 さらに、木畑の「帝国の総力戦」という問題提起をうけて、第1次大戦以後のオーストラリアとカナダにおける戦争記憶の再生産が、帝国的統合と国民国家的自立という二つの方向でいかに作用したのか、またそれがどのように現代の多文化主義につながったのかを動態的にとらえたのが、津田博司『戦争の記憶とイギリス帝国』である。
 これらの一国史を越える視点に加えて、戦争への主体的参加を促す「戦争文化」という新たに提起されている概念と非戦思想とのせめぎ合いなど様々な問題を考え併せることによって、私たちは一歩ずつではあれ、戦争についてより確かな認識に近づくことができるのかもしれない。

 ◇やまむろ・しんいち 京都大学教授(法政思想連鎖史) 51年生まれ。『複合戦争と総力戦の断層 日本にとっての第一次世界大戦』『日露戦争の世紀』など。