時空を超えて言葉のアクセントを追跡する

古代語の音の世界に憧れて

 中学のときに国語を教わった先生が万葉集の研究者だったことが、国語学の道へ進むきっかけとなりました。奈良時代に万葉仮名で書かれた文献のなかに、古い時代の日本語の世界が広がっていること、またそれらの文字を一つひとつ丹念に調べていくと、その時代に特有の仮名遣いや音の区別などが分かってくることなどを教えていただき、さらにそれを研究した人たちの話を聞いて、とても神聖な気持ちになったことを憶えています。

 そんなことから日本の古典を研究したい、それも文学としてではなく、古い日本語の研究をしてみたいという思いをいだいて、早稲田大学の第一文学部日本文学専修へ進学しました。当時の日本文学専修には国語学の先生が3人おられて、それぞれ文法・敬語、文字・辞書、音韻・アクセントを専門としておられました。私は、そのなかで音韻・アクセントを専攻しておられた秋永一枝先生(現・早稲田大学名誉教授)のご指導を仰ぎました。

 秋永先生は、音韻、なかでもアクセントの研究がご専門で、大著『古今和歌集声点本の研究』などの史的研究のほかに、『明解日本語アクセント辞典』の編纂や、東京弁の調査などを精力的になさっておられました。私もテープレコーダを担いでその調査にお供したことがあります。

 私が大学院のころに、先生は本学の演劇博物館に収蔵されている「平曲譜本」(※)の写真をお貸しくださり、そこに書き入れられた平曲譜から江戸時代の京都アクセントを研究するようにご指導くださいました。そのときからずっと今にいたるまで、京都アクセントの歴史を研究しつづけてきました。
(※平曲:平家物語の詞章を琵琶を奏でながら語る伝承芸能のこと)

 なぜ京都アクセントなのかと申しますと、話し言葉のアクセントを反映する資料を、江戸時代から室町時代へ、そしてさらに平安時代へとたどっていくと、昔の資料が残されているのは、長く文化の中心地であった京都、またはその周辺の地域くらいしかないのです。もともと平曲は盲目の琵琶法師が口伝えでつたえたもので、本来なら譜本は必要とされなかったのですが、江戸時代になって晴眼者の間に平曲が広まって伝承芸能を文字に記録しようという気運が高まり、さらには幕府の保護政策などもあって、譜本として記録されるようになりました。しかし、琵琶法師による平曲の伝承は、ずっと京都において続けられてきたのでした。私は、そのような平曲の譜本に記された譜記から、その付された語句のアクセントを推定する仕事に取り組んできたわけです。

 平曲には、旋律のない部分や、それの希薄な部分もかなりあって、そこに書き入れられた譜記は、そのような譜本のできた江戸時代の京都アクセントをおおむね反映していると考えられます。下に掲げた写真は、さきほど申しあげた演劇博物館蔵の『平家物語』(写真1)ですが、本文の左右に線条譜が記されており、右側の朱譜はこの本に本来あった譜、左側の墨譜は当時だんだんと使用されるようになってきた『平家正節(へいけまぶし)』の譜を線条式に形を変えて書き入れたものです。


写真1 早稲田大学演劇博物館蔵『平家物語』(早稲田大学蔵資料影印叢書『前田流譜本平家物語早稲田大学出版部1984〜85より)

 私は主として、この『平家正節』の譜記を調べました。これは荻野知一検校が安永年間に編纂したものでして、音楽性のない《白声(しらこえ)》という曲節の譜記には、ちょうど『平家正節』が編纂されたころの、また音楽性の希薄な《口説(くどき)》という曲節の譜記には、編纂されたときよりもややさかのぼる時代の京都アクセントが反映しているものと思われます。

四国などに聞かれる平曲譜本のアクセント

 ところで、京都アクセントも時代とともに変わってきています。例えば、現代京都では、「赤い(あかい)」も「白い(しろい)」も、HLL(H=高、L=低)と最初の音を高く発音します。しかし一昔前までは、「赤い」=HHL、「白い」=HLLと区別して発音していたことが分かっています。「白い」は現在でも昔のままですが、「赤い」のアクセントが変化して、いつのまにか、それと同じアクセントになってしまったわけです。

 同じようなことは、東京でも現在進行しているように思います。ある年代以上の人たちは、「赤い」=LHH、「白い」=LHLとこれらを区別して発音しますが、今の若い人たちは「赤い」と「白い」のどちらもLHLと発音します。このようにアクセントの違いが統合され、まとまっていく変化は、時代や地域を超えて見出すことのできる現象のようです。

 20年ほど前、徳島大学で教員をしていた時に、学生たちと一緒に方言アクセントの調査を行いました。徳島や高知は、古い時代の京都アクセントが、そのすがたをとどめている地域とみられています。ならば、現代京都で使われなくなったアクセントが、こうした地域に残っていたとしても不思議ではありません。そして予想どおり、徳島県阿南市で調べていたとき、平曲譜本の譜記に反映したものと同じ「赤い」=HHL、「白い」=HLL というアクセントを聞くことができたのです。

 動詞もまた、そのアクセントによっていくつかのグループに分類できるのですが、そのなかの「三拍動詞第二類」とよばれる動詞群において、新旧両方のアクセントが、ある年代を境に共存していること、またさらにその中でも五段活用の動詞と一段活用の動詞とでは変化の時期にずれがあり、変化後の新しいアクセントもそれぞれに異なることが、徳島市内の調査から分かりました。

 たとえば、「余る(あまる)」は五段活用、「起きる(おきる)」は一段活用、どちらも終止連体形の古いアクセントはHLLと最初の音だけが高いのですが、新しいアクセントでは「余る」=HHH、「起きる」=LLHと違うかたちに分かれてしまっています。この新しいアクセントは、どちらも京都において現在聞かれるものと同じです。

 そしてさらに面白いのは、「余る」と「起きる」の変化には、およそ25年ほどの時間差があるということです。それは調査結果をグラフにしてみると一目瞭然です(図1)。1990年ころの調査データではありますが、そのころ「余る」は30代で、また「起きる」は50〜60代の間で、新旧半々のアクセントがともに聞かれたことが分かります。同じような動詞がグループを形成して、まとまって新しいアクセントへと変化する。それも、変化の前には終止連体形のアクセントがHLLでまったく同じでありながら、変化の後ではHHHとLLHという別のアクセントへと分かれていくのです。


図1 徳島市内における三拍動詞第二類の「余る」類(五段活用)と「起きる」類(一段活用)とに聞かれる終止連体形のアクセント(日本のことばシリーズ36『徳島県のことば』明治書院1997より Hを●で、Lを○であらわしていることに注意)

 このようなアクセント変化は江戸時代中期から現代までの間に起こったものですが、それ以前にも大きな変化のあった時代があります。それがどうも南北朝時代あたりのようでして、そのときに京都アクセントの体系は大きく組み換えられました。なぜ南北朝時代なのでしょうか。京都の公家社会に武士が台頭してきたことで、伝統的なものから新しいものへと思い切った変化を起こそうとする何かがあったのだろうと想像したくなります。

 このように、言葉のアクセントの背後では、ある社会的な動きが知らず知らずのうちに働いているようです。してみると、現代の東京アクセントで、「赤い」と「白い」の発音が同じになってしまったことの背景にも、もしかすると伝統の意味がだんだん問われなくなってしまうような、大きな価値観の変化が作用しているのかもしれません。

言語研究への挑戦

 長年にわたる平曲譜本の研究を、2011年にようやく『平曲譜本による近世京都アクセントの史的研究』(早稲田大学出版部)という本にまとめて刊行しました。この研究が評価されて、『広辞苑』の編者として知られる故・新村出博士にちなんだ新村出賞をいただきました。これまで国語学言語学に多大な貢献をしたとされる研究者に授与されてきたもので、恩師の秋永先生も受賞されていますが、このような栄誉ある賞を私などがいただいてよいものかと、非常に恐縮しております。


『平曲譜本による近世京都アクセントの史的研究(早稲田大学学術叢書15)』
上野和昭著、早稲田大学出版部、2011年3月

 今後は、アクセント史の研究全体を概観するような仕事にも挑戦してみたいですね。ともかく資料も研究も膨大で大変なのですが、この研究を広く社会や後の世代に伝えていくためにも、誰かがやらなければならない仕事だと思います。

 また、漢語アクセントについての研究も、さらに資料の範囲を広げて調べていきたいと考えています。例えば、中世から近世にかけて仏教関係の資料に、漢語のアクセントを注記したものが残っています。これらの資料をもっと読み込んでみたい。漢語は古く仏教の言葉などとして日本に入ってきました。漢字の読み方も中国からいろいろな経路で伝わってくるのですが、日本では異なる時代の中国の発音をその都度記憶して残してきました。例えば「明」という漢字にはミョー・メイ・ミンなど、様々な音がありますが、それは日本独特のことです。中国では時代の変遷とともに古い読みは忘れ去られて、新しいものに切り換わりました。ですから、むしろ日本に、中国で消えてしまった発音に対応する読み方がたくさん残っているということになります。

 「漢音」といわれる読みは、奈良・平安のころに遣唐使や留学僧たちが持ち帰ったものですが、これに対して、それ以前から日本に定着していた「呉音」という別の音がありました。例えば、「明」の漢音はメイ、呉音はミョーです。漢音の声調については、日本にも韻書が伝わっていますし、漢和辞典にも記載されています。ところが呉音がよく分からない。漢音の声調とはまったく違うものだったようです。両者の対応関係はそう単純ではなく、法則的でない部分もあるので、調べて比較するのがとても大変です。そのような漢字で構成される漢語のアクセントをデータベースにする仕事も仲間の人たちと協力してすすめています。

 言葉というのは、誰しもが生まれながら与えられたものに乗っかって、その世界に入り込んでいるわけですね。その言葉をもちいてお互いが歩み寄り、理解しあうということの積み重ねによって、私たちの言葉の世界は成立していますが、それがまた絶えず変化しつづけていることにも注意しなければなりません。そこにはまだ分からないことがたくさんあります。この言葉という不思議な世界のしくみを、歴史をたどり、方言にも耳をかたむけながら解き明かしていくのが、私の思いえがく国語学・日本語学のすがたです。

上野 和昭(うえの・かずあき)/早稲田大学文学学術院教授

1953年新潟県高田市(現上越市)に生まれる。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士(後期)課程単位取得退学。1978年東京都立農林高等学校教諭(定時制課程)、1984年早稲田大学文学部助手、1986年徳島大学総合科学部講師、1990年同助教授、1997年早稲田大学文学部助教授、1998年同教授、現在に至る。博士(文学)。主な著書に、『平曲譜本による近世京都アクセントの史的研究』、『日本語アクセント史総合資料』索引篇・研究篇(共編)、『日本のことばシリーズ36 徳島県のことば』(責任編集)ほか。