デモ 荻上チキさんが選ぶ本

■ネットと出会い機能を拡張

 政府や社会に対して何かを訴えたい市民運動にとってデモは、今なお重要な表現手段であり続けている。脱原発を訴えるデモに主催者発表で10万人以上が参加し、「脱貧困」「生活保護たたき反対」を掲げるデモも頻繁に行われている。官邸前には連日、抗議を行う者たちが集まり、思い思いの声を叫び続ける。過去の遺物だというイメージさえあったデモという手段が、いま再び、注目を集めだしている。
 現代型のデモを語る上で特に欠かせないのは、インターネットが運動にいかなる変化を与えたかという視点だろう。津田大介は、『動員の革命』の中で、「ソーシャルメディアがリアル(現実の空間・場所)を『拡張』したことで、かつてない勢いで人を『動員』できるようになった」と指摘する。すなわちデモもまた、ネットと出会うことによって、その機能を拡張することとなったということだ。

■あの時代の理念

 ネットで呼びかけられたデモに多数の人が集まり、その模様が動画やツイッター等で実況され、ブログやフェイスブックには大量の参加報告がアップされる。かつてのデモは、たまたま沿道にいた通行人や、デモの目的地にいる抗議対象に対してのみアピールが行われ、マスメディアが報じなければ社会問題化されにくいという面もあった。しかしウェブ上では、誰でも平易にメディアが持てるため、デモの様子をマスメディアが報じ損じたとしても、自前でウェブ上で共有・確認することが可能となっている。そのためネット活用型のデモは、「報道しないメディア」への圧力としても機能する。
 もちろんネットは、デモの潜在的な力を引き出す道具であり、ネットそのものがデモや革命を引き起こすわけではない。「アラブの春」「オバマのネット選挙」「オキュパイ・ウォール・ストリート」など、その拡大にネットが大きく寄与したことは間違いないが、大元となる情念や倫理が脆弱(ぜいじゃく)であれば、ここまでデモは広がりようがなかった。そのため、方法論にばかり着目するのではなく、運動の意味そのものについて考える場もまた重要となる。
 『総括せよ! さらば革命的世代』は、60年代の学生運動の盛り上がりが何かをもたらし得(なかっ)たのかを、元当事者へのインタビューを通じて振り返っている。編み出されていった精緻(せいち)な理論と裏腹に、運動そのものは凋落(ちょうらく)していった新左翼。現在のデモに対する漠然としたイメージは、「あの時代」への負のイメージで固定されているためでもあろう。とはいえ、「あの時代」の理念と運動を振り返ることは、たとえ「失敗学」としてであっても重要な作業となるだろう。

■実効性どう確保

 一方、五野井郁夫『「デモ」とは何か』では、内外のデモの形が変化してきた経緯を振り返りながら、デモのイメージが「暴力から祝祭へ」と変化してきたことを整理しつつ、同時に「祝祭=例外的で非日常なもの」というイメージをも払拭(ふっしょく)するため、いかに一般性と日常性を再獲得するか、「圧力」としての実効性をいかに確保すべきなのかという課題を投げかける。
 デモあるいはそれ以外の手段によって、いかなる社会を作っていきたいのか。あるいは求めたい社会を実現するために、いかなる手段が手元にあるのか。運動を意味あるものにつなげるためにも、この問いへの応答を加速させなくてはならない。

 ◇おぎうえ・ちき 評論家・「シノドスジャーナル」編集長 81年生まれ。著書に『検証 東日本大震災の流言・デマ』など。