本当の友情

お題が大きすぎて、まったくどんなことを書くかわからないですけれども、本当の友情の形が、最近、年をとるにつれて大きく変わっている気がします。これは老化現象の一つでしょうか。 「友達」とはなにかを考えるとき、「知り合い」<「友達」で、「知り合い」は「知り合い」です。「友達100人できるかな」は、私にはちょっと重いタスク過ぎますが、一気に「知り合い100人」は行ける気がします。最近、知り合い増加率がものすごい高まっているので。神奈川に住んでいて、同じようなことにきょうみを持つひとたちというのは、せいぜい500人から1000人くらいのスパンなのかもしれません。徐々に増えている気がしますが、万を越す人間の量ではなく、いろいろアクセスするうちに、○○さんの知り合いで、とすべてつながっていることが多いです。では「友達」とは何か。私には会わなくても「友達」と考えられるすてきな人々がいます。会わないと「友達」リストから外れていく人は、もしかしたらお互い友達じゃないのかもしれません。だから頻繁に「お茶しよー」でもなく、毎週のように「とにかく会おう」でもなく、お互い、「あいつはどこかですげーがんばっている」と感じられる「あいつ」の存在が私を突き動かしていることが多々あります。そういう人の方が、私にとっての影響力は大きく、そして久々に会うとものすごい量のパワーをもらう。こういう人が最近少し減った気がします。「友達」の形が変わったのでしょうか。「私」が変わったのでしょうか。「私の環境」が変わったのでしょうか。先日ミクシですごく素敵なやりとりができた友達がいました。彼女のことを、いまさらながら本当によく知ることができたことと、そして、本当にこの人は頭がいい、本当にこの人は素敵な文章を書く人だ、と涙がでてきそうになりました。そして、友達でい続けられたことを どれだけ うれしかったか。私たちは 一緒に年をとります。一緒に 時代や パートナーや 環境や 仕事によって、大きな変化を受けながら、どんどん年をとります。そんな彼女と私との関係が、会わなくても信じていられることは、すばらしいことだと思います。私の周りの女性たちは、みな会う暇がないくらい忙しく、自分のことを前へ前へと進めており、そして、とても深い思考と 深いところで語り合うことができる言葉を持っています。そしてその言葉に触れる度に、震えるくらいの何かに出会います。それは感動とか、共感とか、そんな二文字やありきたりの言葉では足りない、そういう震え。彼女たちと出会えたことがしあわせで、生きていてよかったと思うひとつの理由。彼女たちががんばっているから私は前に突き進むしかないと思う。最近、みな友達たちは 彼氏やだんなさんとの、ステディな関係を作り、家庭を持つこと、仕事と家族を両立させること、そういったことへ関心が広がり、いまや、恋愛話は きってはったの 青臭いものは消え去っていて、それよりも、愛について、きちんとそれぞれが意見を持ち、それがゆえに、どんな恋愛話よりも わくわくする内容で、波乱万丈です。大学時代、私はあまり周りに女友達がいなくて 花の女子大生的恋愛論からかなり縁遠い人間だったのですが、学部をでたくらいから、みな四苦八苦しはじめ、紆余曲折し、波乱万丈に飛び込み、そして今もなお、愛という言葉に果敢に挑み続けている。この血なまぐさいほどの恋愛のお話をおしゃべりすることが恋愛なんていう枠を超えて、 すべての人間同士のコミュニケーションの中の本質的なところにまで落ちてきている。もう一人の友達は、本当につらいことがあった。そのつらさはわかってあげられる。私も そのつらさを共有してあげられる。でも指摘しなければならないことは指摘しなければならない。つらくても、相手の反応がものすごく落ち込む内容だとわかっていてもやはり指摘しました。これは意地悪ではなくて、彼女が見えているものごとにもうひとつの視点を、スポットライトをあてたことなのだとわかってくれれば・・・いつの日か、でかまいません。彼女には、キルフェボンのケーキを二つ、お土産においていきました。彼女が元気になるまでは、きちんと支えようと思っています。これが友情よなんて思わない。でも、こうしていることが 私にはとても重要だということは確かで、それを友情と呼ぶなら 勝手に呼ぶがいい、というくらいのもので。お互いが自分勝手くらいの友情を持ち合う、この素敵な距離感の友達たちを私はけっして手放したくありません。