地理主義の理想

一個のゴムのボールがAからBに投げられる。夕暮れの倉庫にある路上での自転車修理工とタクシーの運転手がキャッチボールをする場合を考えてみよう。修理工がボールを投げると運転手が胸の高さで受けとめる。ボールがお互いのグローブの中で、バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを相手に渡してやった気分になる。その確実な何かが何であるかは、私にもわからない。だが、どんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことは出来なかったであろう。ボールが運転手の手を離れてから、修理工の手に届くまでの一瞬の長い旅路こそ、地理主義の理想である。手を離れたボールが夕暮れの空に弧を描き、二人の不安な視線の中を飛んでゆくのを見るには、実に人間的な比喩であるに違いない。終戦後、日本人の心の中で描き続けた会話は、まさにこのキャッチボールのおかげであったと考える。